日本と台湾を結ぶ八田與一さん・八田外代樹夫人の物語
台湾を初めて訪れました。
水利土木の技術者であった八田與一さんが、
命がけで建設した台南南部の嘉南平野にある烏山頭ダムを訪れるためです。
石川県出身の八田與一さんは、台湾が日本だった時代に、
マラリアの伝染病と戦いながら、
台湾の上下水道の整備、灌漑や発電設備のインフラ整備に従事された技術者です。
(八田與一 - Wikipediaより)
台湾行きのバスの中で知り合った台湾人の20代のエンジニアに、
八田與一さんのことを尋ねてみたところ、なんとご存知でした!
八田與一さんと烏山頭ダムのことは、中学校の歴史の教科書に登場するのだそうです。
でも、日本人で知っている方は少ないようですね。
台湾の教科書に出てくるのに、日本の教科書には出てきません。
八田與一さんは、
この地域にある15万ヘクタールほどある田畑が、
常に旱魃の危険にさらされて、
不安定で収穫の上がらない状況を変化さえるため、
ダムと灌漑用水路を計画して、政府に提案したのですね。
国会で承認されて、補助を受けて、組合を結成したそうです。
政府の役人だったのを辞めて、自らこの組合付きの技術者になって
10年の歳月をかけて工事を行ったそうです。
ダムの満水面積は1000ha、有効貯水量は1億5,000万m3の世界一の規模だそうで、
それに16,000kmにわたって細かくはりめぐらされた水路をつくったそうです。
(八田夫妻のお墓から見下ろす烏山頭ダムの眺望)
(烏山頭ダムを堰堤から眺める)
(張り巡らされた嘉南大しゅうの水路の様子。現在もほとんど同じ。)
これによって、この地域は台湾最大の大穀倉地域になったそうです。
素晴らしいですね。
ところが、1942年(昭和17年)にフィリピンの灌漑調査に行く船が
アメリカの潜水艦から攻撃されて亡くなります。
そして、日本が戦争を止める決断をした1945年(昭和20年)8月15日から
わずか2週間後の9月1日、
喪服に白足袋という正装で、烏山頭ダムの放水口に身を投げてしまいます。
享年45歳。身を投げた放水口の場所には、
草履がきちんと揃えて置かれてあったそうです。
(外代樹夫人が身を投げた放水口)
遺体は、放水口から8km下った水門に引っかかっているところを
農民の方が見つけたそうです。
投身自殺された9月1日というのは、実は烏山頭ダムの起工式の日だったんですね。
その日を選んで亡くなられたのは、メッセージそのものですね。
(子を抱える外代樹夫人)
夫と共に精魂をかけて建設したダムはもちろん、
台湾各地で建設してきた上下水道の事業も、
全てを捨てて、日本に帰るわけです。
しかも帰る先は、全国の都市が空爆されて原爆まで落とされて、
アメリカに占領されてしまったボロボロの日本にです。
台湾で、こんな偉業を成し遂げたにも関わらず、
「迷惑をおかけしました。申し訳ありませんでした。」
と謝罪して、日本に帰ることになるわけです。
この悔したといったら、どう表現したらよいかわからないですね。
でも、現地の人は、身を投げるしかなかった外代樹夫人のことも
八田與一さんのことも忘れていないのです。
ありがたいことです。
教科書にもなり、漫画やアニメにもなって、現代に伝えられています。
(八田與一さんのストーリーを伝える本や漫画。八田與一記念館にて。)
私は、このダムを訪れることで、はっきりと気づいたんです。
日本は、偉大なんだってことです。
こんなことができるのは、日本しかないですから。
当時、「アジアの近代化は、アジアでやるんだ!」という
勇気と自信感が半端なかったです。
明治からの日本の爆発があったからこそ、
アジアの国々が独立できて、人種差別撤廃にも、
殖民地が解放されていくプロセスにも
偉大な貢献をしてきたんです。
それなのに、日本は、戦争犯罪国家にさせられちゃっていました。
これを思うと、悔しくて、悔しくて、
腸が煮えくり返るような感情が沸いてきます。
これは日本の涙です。
この日本の涙を使って、
世界を変えていきたいのです。
世界を変えられるのは、日本しかない。
本当にそう思います。
目覚めろ日本!
このことを20年以上前から、
日本人に訴え続けてこられた韓国人がいらっしゃいます。
Noh Jesuさんという方です。
反日・嫌韓を越えて、日本を目覚めさせるために、一途に活動をされています。
私たち日本人としては、早く気づいて
世界に、人類に変化をもたらしていくことで、
その意志に報いていければと思います。
今日もお読みいただき、ありがとうございます。